上善若水(じょうぜんみずのごとし)禅語 禅書 書道作品


上善若水

じょうぜんはみずのごとし


人と人が顔を合わせてハナシをすると、そこにいろんな摩擦が生じます。プラスにはたらいて熱がうまれ、ポカポカするような摩擦もあれば、互いに相容れずバチバチと静電気が起こるような摩擦も。ボクはどちらかというと、摩擦係数が高めな人間です。おまけに摩擦係数の高い人と話すのを好む性質があるので、熱を生むこともあれば静電気を起こすこともよくあります。静電気パターンの後は徒労感とともに少し自分のかたくなな気質を反省するものの、それでも相手にハナシを合わせてやり過ごすような関係性にあまり魅力を感じないのも事実。

閑話休題。
老子はそのむかし、最も理想的な身の処し方として「上善若水」という言葉を遺しています。

上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。
故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不爭、故無尤。


最も貴いのは水のようなあり方だ。水はあらゆるものに恵みを与えながら争うことがなく、自然と人が避ける低い場所に集まる。その様子は「道(悟り)」に近いものだ。低いところが居心地よく、心は静かで奥深いのがいい、人付き合いは情け深いのがよく、真心を持って話し、善い政治で世をおさめ、タイミングを見て能率よくことを進める。水のように争わないようにすれば間違いは起こらない。と、意味はそんな感じでしょうか。

これまでは、日本酒の銘柄キッカケで知ったこの「上善若水」という言葉の上っ面だけを薄っぺらく「水のように相手に柔軟に合わせて要領よく生きなさい」という意味に勝手に解釈し、なんとなく意識の片すみで否定していました。

今回、この書を書くにあたってちゃんと老子の言葉を読んでみると、「機を見て善い政(まつりごと)をしろ」とまで言っています。なるほど、もしかしてこれはただ単に処世術を説明したものではなく、「そうすれば、争わずとも水のように人やモノを動かし、必要があれば岩も削る大いなる力となるだろう」ということを言っているのではないだろうかと、そんな気がしてきました。

ツラツラと書いてきたものの、まだ今のところ結論めいたものはありませんが、これまで善しとしてきた自分の「かたくなさ」について、あらためて考えてみたほうがいいのかもしれないなと、そんな気がしている土曜日です。

みなさん善い週末を。


禅のことば – 020 / 365

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