大塩平八郎 檄文より冒頭の一節  - from Heihachiro Oshio's manifesto

小人に國家をおさめしめば災害并至と
昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ
(原文)

大塩平八郎の檄文 冒頭の一節より
from Heihachiro Oshio’s manifesto




なんとなく読めるでしょうか。
現代語(口語)訳は検索してみてください。

維新 という字を書くにあたって、どうしても避けて通れないのが後の明治維新の大きなうねりの発端になったこの檄文。ということで全文書いてみました。こちらはその一部です。あれから200年近く経とうとしていますが、現代の与党のみなさんが読んでも耳が痛いんじゃないでしょうか。

当時は幕府の弾圧から逃れなから、隠れるように人づてに密かに写しを書き、伝承したとか。Webも電話もなかった時代ですが、大切な思いはしっかり共有されていたんですね。当時の寺子屋では習字のお題になっていたそうです。
時間があれば全文読んでみてください。


天より被下候
村々小前のものに至迠へ

四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人に
國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く
天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ
東照神君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみ
を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然ルに茲二
百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこり
を極太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受と
て贈貰いたし奥向女中の因縁を以道德仁義をも
なき拙き身分ニて立身重き役ニ經上り一人一家を
肥し候工夫而已ニ智術を運し其領分知行所之民百
姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき
苦む上江右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ
四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ
成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入
天子ハ足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を
御失ひニ付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な
き樣ニ乱候付人々之怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も
溢るより外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候是
皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも一向上たる人々
心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱
し金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓共
のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候
得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけ
れバ徒ニ蟄居いたし候處此節米價弥高直ニ相成大坂之
奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手
の政道をいたし江戸へ廻米をいたし
天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な
らす五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔い
たし実ニ昔葛伯といふ大名其農人乃弁當を持運
ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民
ハ 德川家御支配之ものニ相違なき處如此隔を付候ハ
全奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を度々
差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者前にも申通
道德仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届
之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候
利德之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福
に暮し丁人之身を以大名之家老用人格等ニ被取用
又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく
暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死之
貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構
之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋へ大名之家來を
誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし此難
澁の時節ニ絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎
ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の
酒盛も同事其所之奉行諸役人手ニ握居候政を以右之
もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場斗
をいしり事いたし実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶
御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武
之勢孔孟之德ハなけれ共無據天下乃ためと存血
族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し
苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂
市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共
穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米
夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持
不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難
出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに而も
大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も
早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候
鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて當時之
飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者
ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申
へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠
輕くいたし都而中興
神武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣
年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素ニ立戻り四
海萬民いつ迠も
天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄を
救ひ死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜
天照皇太神之時代に復シかたく共中興之氣象ニ
恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ
度候へとも数多之事ニ付最寄之人家多候大村之神殿江
張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる
樣ニ心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大
坂四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子ニ候ハゝ遠慮なく
面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を
承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ
金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失
ひ申へく候間跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者
と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是
迠地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面
類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて
人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝
平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候
と申者も是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天
下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之
日月星辰之神鑑ニある事ニて詰ル處者湯武漢高
祖明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心
而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を
爾等眼を開て看

但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等
より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃
禍を畏一己ニ隱し候ハゝ追而急度其罪可行候

奉天命致天討候

天保八丁酉年月日 某
 
攝河泉播村村
庄屋年寄百姓并小前百姓共へ